四年生引退ブログ

2025.11.27

吹奏楽団H.N

応援

 

この部に入って良い想いをさせてもらったし、この部のお陰で今の自分が在ると想う。そして今後一生、学生時代に応援に汗を流した男として生きてゆくのであろう。この部に入って良かったか否かを今この瞬間に全てが終わったかの如く評価するのはナンセンスであり、むしろこの部を出た後も続く我が人生という名の旅路こそがこの4年間の価値を如何様にも変えると考えている。とはいえ、4年間で学んだこととして、直感の大切さが挙げられる。何でも理論、理屈、合理性ばかりが先行しがちで息苦しい現代において、応援は信じたいものを理由抜きに信じ、ただひたすらに眼前のものごとに打ち込み、時間を忘れ、地に足をついて己が何者であるかを考えさせてくれる機会を与えてくれた。この部は言語を超えた感覚を大切にする場所であり続けて欲しい。その地に息づく呼吸感を知らずして外的自己という名の窮屈な仮面を被ると、その仮面はいずれ自己の内面を喰い破り、蝕むだろう。根の無き急速な革新と幻となりつつある伝統の狭間に彷徨い、揺れ動かされ、悶える士に光あれ。

 

 

先輩方、私を鼓の道へと導いて下さり、どうもありがとうございました。さて、鼓を打つとは禅のようなものであると思う。鼓を打っている時だけは無になれるような気がする。一口に無といっても、それは読んで字の如き無ではない。己の心に浮かぶ妄念を相対化し、そのままにすることが出来るという意味での無である。己の感情、脳みその奴隷にならず、虫の眼ではなく鳥の眼で己を見つめられる。己の内面に複数の己を持てる。今でも時折鼓を打ちたくなるのはそういった鼓の魅力があるからであろう。鼓とは精神と体力と音楽とが融合した道である。この道を究めるのに4年間では到底足りない。今日もこの道を究めるべく、そして己を見つめるべくただひたすらに打ち続ける。鼓動を鳴らせ。鼓道を進め。

 

福澤諭吉

 

福澤諭吉は教育の力によって士農工商を士士士士へ変えようと志したのだと心得ている。しかし、福澤諭吉の没後百二十余年が過ぎた今、日本に誠の士は居るであろうか。農工商ばかりが蔓延ってはいないか。福澤諭吉は所詮一介のロマンチストに過ぎないのであろうか。であるとすれば我々塾生は何を誇りに塾生たらしめんとするのであろうか。我ここに我が人生を賭して士ならんことを欲す。