2025.11.24
チアリーディング部L.K
こんにちは。
本年度、慶應義塾体育会應援指導部にて応援企画責任者を務めております、L.Kです。
毎年この時期になると、引退を迎えた4年生のブログを読み、うるうるしながら同期と練習場に向かうのが恒例でした。そんな私たちも遂に“書く側”となり、ようやく引退という現実を受け入れ始めています。
【入部に至るまで】
私は端艇部出身である父の影響で、幼稚園の時に早慶レガッタを見に行きました。そこで見た應援指導部のチアに一目惚れし、小学校に入ってからチアダンスを習い始めました。小さい頃から人を笑顔にすることが大好きだった私にとって、チアはまさに自分の「好き」を形にできる場所でした。
小学校6年間チア漬けの毎日を送っていましたが、中学では一度チアを辞め、学校生活を満喫していました。
高校では、当時“学校一厳しい”と言われていたバトン部(チア部)に入部することを決意し、再びチアを始めました。練習中の笑顔が禁止され、上下関係も厳しく、部活のない日も自主練習に明け暮れる毎日。振り返れば、高校生活の思い出はほとんど部活一色でした。正直、チアの根本である“楽しむこと”を忘れてしまっていたように思います。だからこそ、同じ時間を共有した同期との絆は強く、あの頃に学んだ「チームワークの素晴らしさ」は、今の自分の大切な軸になっています。
そんな経験から、大学では「もう部活に縛られたくないかも…」という気持ちがあり、應援指導部への入部をギリギリまで迷っていました。しかし、オリエンテーションで「若き血」が流れる中、自分がチアを始めるきっかけとなった應援指導部のチアリーダーを目の前にした瞬間、胸の奥が熱くなり、「大学生活をこの部に捧げたい」と決意しました。今では、あの時入部を決意した自分に大大大感謝しています。
少し前置きが長くなってしまいましたが、ここからは私の4年間を一緒に振り返っていただけたら嬉しいです。
【1年生】
とにかく全てが初めてとなる1年でワクワクドキドキの毎日でした。最初に衝撃を受けたのは、チアリーディング部の練習です。緊張いっぱいで臨んだ初日の練習で、部員たちがお互いに笑顔で励まし合いながら明るく練習している姿を見て、「これがチアだ!」と心から思いました。高校のバトン部では練習中に笑顔が禁止されていたので笑、この空気は衝撃的で、改めてチアの楽しさを思い出させてくれました。とはいえ、楽しいだけの1年ではありませんでした。応援歌の踊りのチェックに向けた練習や、1年生ならではの業務も多く、容量が悪くて不真面目な私たちは、毎回のように壁にぶつかっていました。ギリギリまで部室にこもって作業をしたり、チェック前にはオンラインで夜遅くまでお互いの踊りを確認し合ったり、「受かりますように」と願いを込めて同期全員で運気が上がる待受画像に変えてみたり……笑。悔しくてみんなで涙を流した夜もありました。でも、今振り返ると、あの時間こそが私たちの絆を一番強め、成長させてくれたのだと思います。
そして、もう一つ。 私の應援指導部人生を決定づける瞬間がありました。初めて参加した野球応援の全体集合。緊張で周りを見る余裕もなかった私の視界に、当時の応援企画責任者が数百人の前に立ち、迷いなく声を出し、チーム全体を引っ張っていく姿が飛び込んできました。「私も、あの場所に立ちたい。」その瞬間、応援企画責任者になることを心に誓いました。振り返れば、この時に抱いた感情こそが、4年間の私を突き動かした大きな軸でした。迷った時も、不安な時も、あの日見たあの光景が、いつも自分を前に進ませてくれました。それからは先輩方の応援を見て良いところはすぐに真似し、少しずつスキルを身につけ、新しいことに挑戦する機会もたくさんいただきました。応援後に先輩から「今日のLの応援よかったよ」と褒めていただけることが大変嬉しく、それがモチベーションとなっていました。そのため、自分も先輩になったら絶対に後輩一人一人を見て声をかけられる人になろうと決めていました。これらの経験の積み重ねが、確実に応援への姿勢を形作り、私の1年目を支える土台となりました。
【2年生】
この1年は、本当にたくさんの感動に出会いました。
まず、初めての後輩ができました。今までひたすら先輩の背中を追うだけだった私たちが、ついに“育成する側”に。同期でどんな先輩になりたいかを話し合い、当時は案外ちゃんと先輩できているのでは?と思っていたけれど、今振り返るとだいぶ雑でしたよね??(To. 3年生)まあ、ポジティブに言えば、それも“私たちらしさ”ということで……。笑
そして、コロナが明けて応援席が徐々に戻り、来てくださった方々と一緒に声を出せる喜びを強く感じました。「一緒に応援できることは当たり前じゃない」と知っているからこそ、なおさら胸が熱くなりその一瞬一瞬を心から大切にし、感謝しながら活動していました。自分の声や動きについてきてくださる方がいるだけで、本当に心強く、応援席で直接コミュニケーションを取れた時はその温かさがまっすぐ伝わってきました。選手がいて、応援席に来てくださる方々がいて、はじめて“応援”は成り立つ。そのことを心から実感すると同時に、正直、外野応援では本当に選手へ届いているのか、意味があるのかと迷う瞬間もありましたが、応援席の皆さんの反応や言葉に触れる度、「応援には人の心を動かす力がある」と実感することができました。
さらに、慶應義塾高等学校の甲子園優勝に続き、塾野球部も六大学野球秋季リーグ戦優勝、そして神宮大会優勝と、まさに“慶應イヤー”となりました。優勝が決まった瞬間に飛んだ紙テープ、割れんばかりの歓声、泣きながら歌った試合後の塾歌。どれも今でも鮮明に思い出せる一生の宝物です。
【3年生】
大好きな野球応援を取り仕切る憧れの野球サブに就任したものの、待ち受けていたのは應援指導部人生で最大の壁でした。ずっと楽しみにしていた役割だったのに、就任した瞬間にドンッとプレッシャーがのしかかってきました。今までは応援を純粋に楽しむことができていたのに、試合中はマネジメント側として、部員の動きや応援の回り方に意識を向け、常に眉間に皺を寄せていたと思います。
とにかく、この1年はリーグ戦の何ヶ月も前から試合終了まで、四六時中野球応援のことばかり考えていました。一緒にサブを務めた2人とは、外が真っ暗な時間に始めたミーティングを、外が明るくなるまで続ける日もあり、多くの壁を乗り越えてきました。2人には本当に助けられましたが、私は応援にこだわりを持つ2人と比べると自信がなく、少し萎縮していた部分もありました。だからこそ、自分にしかできないことをやろうと決め、「部員の誰よりも声を出す」ことを自分の中でルールにし、どこにいても私の声が届くよう、全力で応援しました。しかし、上級生からは「2人に比べてどこにいるか分からない」と指摘されてしまい、ハッとしました。正直図星で、私は声を出すことだけに逃げていました。
そこから自分にできることを必死に考えました。野球についての知識を深めるため細かいルールを再度勉強したり、1人でハイライト映像を見ながら戦況把握の練習をしたり、前日には集合時に部員のモチベーションを保つために何を伝えるか文章を考え、お風呂でリハーサルしたり。とにかくその時できることはなんでもやりました。表では泣かなくても1人で涙を流すことは何度もありました。それでも、不思議と「辛い、辞めたい」と思ったことは一度もなく、逆にサブの役目がまだ終わらないでほしいと思っていました。きっとそれは、辛さを吹き飛ばすくらい、応援が心の底から好きだったから。一度折れかけても、神宮に立てばすべて忘れて夢中になれる自分がいました。
そして何より同期の存在が大きかったです。今まで散々「ポテンシャルの代」と言われ、仕事も完璧にこなせるタイプではない私たちでしたが、不器用ながらもサブとして力強く応援を仕切る姿は、私にとって何よりの原動力であり、背中を押してくれる存在でした。どんな時も「頑張ってるよ」と励ましてくれる同期に支えられ、この1年を乗り越えることができました。
より同期が好きになった1年。より応援が好きになった1年。すべての経験が、私の3年生を彩るかけがえのない時間でした。
【4年生】
遂に、私がずっと目指してきた応援企画責任者になることができました。責任者といっても、実際はサブである3年生が作り上げたい応援の形を実現できるよう、アドバイスをしたりサポートしたりする立場です。だからこそ、責任者でありながら、サブの時より純粋に応援を楽しむことができた1年でした。サブの頃は準備や当日のマネジメントも、自分が担当しているスポーツだけでしたが、責任者になってからは全てのスポーツに関わるようになり、応援に行く機会も一気に増えました。その中で、サブたちが応援に込める想いや、選手が試合に懸ける気持ちにも触れ、私自身もより深い気持ちを込めて応援できるようになったと感じています。
この役割で私が一番意識していたのは、部員全員が自分の存在意義を見失わないようにすることでした。応援には明確な評価基準がなく、自分たちの想いが本当に届いているのか、力になれているのか不安になる瞬間がどうしてもあります。また、試合の勝敗に左右されやすく、負けが続くとモチベーションまで落ちてしまうこともあります。どれだけ一生懸命声を出しても思うような結果につながらなかったり、反応が得られなかったりして、応援の中心が折れそうになることもありました。
それでも応援が「楽しい」「好き」と思えているのは、応援席が一つになった瞬間や、選手から「応援ありがとう」と言ってもらえたときに感じる達成感や感動が、言葉では表せないほど大きいからです。その喜びがあるからこそ、誰にも応援に苦手意識を持ったり、辛いまま終わってほしくないと強く思っていました。
特に経験の浅い下級生は「私なんて…」と萎縮してしまいがちだけれど、本当はそんなことは全くなくて、150人がいるからこそあの一体感が生まれます。だからこそ、一人ひとりが持つ力の大きさや、応援の楽しさを何としても伝えたい。そんな思いで、私なりに試行錯誤を重ねた1年でした。
あの頃憧れていた先輩たちのように自分がなれているかは分かりませんが、少しでも「今年の応援企画責任者が私でよかった」と思ってもらえていたら嬉しいです。また、私をきっかけに応援を好きになってくれた人がいたら、それ以上の喜びはありません。
正直、私たちが4年生になるなんて想像できなくて、「この部どうなっちゃうんだろう」と最初は不安しかありませんでした。今でも完璧な最上級生だったとは言えないかもしれませんが、あの頃“ポテンシャル”と呼ばれていた私たちに見せてあげたいくらい、みんな本当に成長したと思います。今では誰もが「私が」ではなく「應援指導部が」を主語にして物事を考えられています。引退ブログを読んで、後輩たちはきっと驚いているんじゃないかな?笑
学年の円陣も、どの学年よりサクッとしていて大人しめで、いつも一歩引いて周りを見ているように見えるかもしれません。でも表に出さないだけで、実は私たちって本当に熱くて、誰よりもこの部が大好きな人たちばかりなんです!
この1年が始まった時は「まだまだある」と思っていたのに、気づけばあっという間に過ぎてしまい、とうとう引退まであと“10日”になってしまいました。そしてこれを書きながら、実は何度も涙が出ています。笑
とにかく濃くて、濃すぎた4年間。大好きなチアと応援を、一生の仲間と共にできたこと、本当に幸せでした。
To. 大好きな同期
4年間本当に楽しかったね。私は練習前後とか応援前の軽食タイムとかみんなと過ごす何気ない時間が本当に大好きでした。みんなで大爆笑したことも、大号泣したことも、大爆睡したことも、全部が全部、一生の宝物です。素敵な瞬間をたくさん一緒に過ごしてくれて、本当にありがとう。言いたいことはまだまだあるけれど、何よりも、みんなが同期で良かった。みんなと一緒じゃなきゃ乗り越えられなかったことばかりです!これからも末長くよろしくね。
To. 1,2,3年生へ
頼りなさすぎる先輩だったと思うけど、ここまでついてきてくれて本当にありがとう。代ごとにそれぞれ違うカラーがあるのに、3学年共通して言えるのは、めちゃくちゃ元気で、素直で、成長が止まらないということ。いつか抜かされるかも…って思うくらいパワフルなみんなの姿に、何度も背中を押されていました。こんなに可愛い可愛い後輩に恵まれて幸せでした。
To. 家族
4年間、わがまますぎる私を四六時中サポートしてくれてありがとう。朝は決まって不機嫌で、部活帰りは機嫌が良いとおしゃべりが止まらず、嫌なことがあると八つ当たりしてしまって…。本当にたくさん迷惑をかけました。それでも応援を見に来てくれたり、撮影してくれたり、笑顔で「ただいま」「おかえり」を言ってくれたり、朝は毎日私より早起きしてくれたり、どれもこれも感謝の気持ちでいっぱいです。いつもプラスの言葉で支えてくれて、家族がいなかったら絶対に続けられませんでした。改めて、本当にありがとう。
To. R.S
小学校から数えると、もう16年目だね。この4年間は、ほとんど一体化してるんじゃないかってくらい、毎日一緒にいてくれて、たくさん笑わせてくれてありがとう。Rとは考え方も、好きなものも、やりたいことも、不思議なくらい全部同じで、この先これほど気が合う人にはもう出会えないと思っています。辛い時もRに話すと、最初は泣いているのに、気づけばケラケラ笑っていて、悩んでいたことも自然と忘れられました。野球サブ時代は「部員に涙を見せない」と決めていたのに、Rの前だけでは泣いてました笑。もう“親友”という言葉を超えて、なくてはならない大切な存在です。チームの太陽みたいなRは、私にとって最高で最強のトレチだよ。4年間、どんな時も一番の味方でいてくれてありがとう。
最後に、應援指導部をきっかけに出会えたすべての人へ、感謝の気持ちでいっぱいです。そして、こんなにも長い長いブログを書き上げた“おしゃべりモンスター”な私の文章に、最後までお付き合いいただきありがとうございました。



