2024.11.18
チアリーディング部門Y.Mi
本年度、慶應義塾体育会應援指導部・広報責任者を務めております、Y.Mと申します。
さて、この1週間同期に引退ブログの提出を催促をしてきた私ですが、いざ書き始めるとなると何から書けばいいか分からないものですね。
引退を間近に控えた今、母から「コロナもマイコプラズマも流行ってるから、引退まで本当に気をつけてよ!」という愛のある言葉を貰ったので、免疫たっぷりなヤクルトを片手にこれまでの4年間、と言わず、せっかくなので生まれた時から振り返っていこうと思います。笑
想像以上に長くなってしまったので、お時間を許す方は最後までお付き合いください。
みなさまへの感謝の気持ちは、最終章で綴らせていただきます。
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第ー章 チアダンスとの出会い
本来大晦日に生まれてくるはずだった私は、せっかちな性格だけに1週間早いクリスマスに誕生しました。
おしゃぶりをなかなか手放せなかったものの、気がつけば「じゅんべ(訳: 自分でやる)」が口癖になっていたと、ついこの間両親から聞きました。どうやら幼い頃から独立自尊の精神を持ち合わせていたようです。
そんな私には三つ上の兄がおり、兄は慶應義塾幼稚舎に通っていました。なんでも兄の真似っこをしていた私は、「どうしても幼稚舎に入りたい」と言い張り、受験時には他の学校で若き血を歌ってしまう、という失態を犯したそうです。(両親には恥ずかしい想いをさせてしまったため、とても申し訳なく思っています。)
そして無事幼稚舎に合格できた時、私は号泣しながら喜んでいたとのことです。兄と同じ学校に行けるというのもそうですが、伝統と気品を兼ね備えた慶應義塾という場所に、幼いながらも強い憧れを持っていたのだと思います。
幼稚舎に入学して間も無く、「慶早戦」に行く機会が訪れました。当時は野球のルールすらよくわかっていなかったはずですが、今では馴染み深い紙メガホンが原型なく壊れるほど全力で応援し、若き血が流れた時には、人一倍小さい背丈でありながらもなんとか横の人と肩を組んで歌っていたことを鮮明に覚えています。
そんなこんなで中等部に進学した私ですが、3歳から新体操を習っていたこと、幼稚舎で茶道部に入っていたことから、体操部と茶道部に入部しました。体操と茶道、まるで正反対な部活動ですが、兼部していたためになかなか充実した中学生活を送っていました。ちなみにですが、この体操部から今に至るまで、ずっと同じ部活で過ごしてきたのが、大切な同期のM.Sです。10年間ありがとう✌🏽
そして、「チア」にはじめて触れたのがこの体操部でした。バスケットボールのハーフタイムショーで踊る機会をいただき、新体操とはまた違ったチアダンスに挑戦することとなりました。チアらしい動きは全くの未経験で、本当に見様見真似でした。
拙い踊りだったとは思いますが、その時に笑顔を褒めて貰えたことがとっても嬉しくて、それ以降自信を持って笑えるようになりました。
第二章 応援との出会い
女子高に進学する前、「バトン部は女子高の中でも1番上下関係が厳しく、とにかく忙しい」という噂を聞きつけ、躊躇する自分がいました。そんな私がバトン部への入部を決めたのは、またもや兄が放った言葉がきっかけです。
“全力でやり切って、後悔することは絶対にない”
高校時代ラクロス部に所属し、毎朝四時に起き、私が起きる頃にはもうお家を出ている、そんな生活を送っていた兄からの言葉には、私の迷いを吹き飛ばすには十分すぎるほどの重みがありました。
背中を押されながら入部したバトン部は、想像通り、いえ、想像以上にキツかったです。笑
練習場所(食堂)に落ちたゴミを素手で拾い、廊下を歩く時は上級生への挨拶を怠らないよう360度カメラのようにあたりを見渡し、死に物狂いの雑巾掛けでは過呼吸になったりもしました。今では笑い話です。
そんなバトン部では、野球応援、文化祭、チアダンスの大会…と日々目標のある生活を送っていましたが、チアとして高校野球、慶早戦に参加したことで「応援」と出会いました。高校時代に甲子園での応援を経験できたことは本当に貴重でしたし、今まで感じたことのない熱い空間に胸を打たれました。
第三章 應援指導部との出会い
高校2年生の冬、「やっと3年生だ!!最後の1年、全力でやり切ってやるぞ!」そう意気込む私たちを気にも留めず、新型コロナウイルスはやってきました。
多くの方の命を奪い、数えきれないほどの人々の生活を壊していく現実を前に、行き場のない喪失感と悔しさを抱え、現実を受け入れられずにいました。そして思い描いていた最後が訪れることもなく、呆気なく高校生活は幕を閉じました。
大学入学前、私は「應援指導部」という存在に惹かれながらも、正直もう一度挑戦することに臆病になっている自分がいました。満足に最後までやり切ったとは言い難い高校最後が、ずっと心残りだったからです。
でもだからこそ、「ここでもう一度最後までやり遂げたら、この悔しさを晴らせるのではないか。」
そう思い直した私は、縋る思いで應援指導部への入部を決意しました。幸いにも、應援指導部にはバトン部時代にお世話になった上級生方がいらっしゃった為、とても心強かったです。ありがとうございました。
第四章 應援指導部生活
ここまで應援指導部に出会うまでの変遷を長々と語ってしまいましたが、ようやく本題です。もう少しだけお付き合いください。
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女子高バトン部を通じて応援の楽しさを知ったつもりでしたが、應援指導部で目にした光景は、まったくの別世界でした。
華やかなだけでなく、勝利に執念を燃やし、想いを全力でぶつける姿に心揺さぶられ、「私もこんな応援を届けたい」そう思ったあの日から挑戦を重ねてきました。自分の限界を超える毎に、少しずつですが、憧れの姿に近づけたような気がします。
〜1年生〜
とにかく新しい世界に慣れることに必死でした。偉大な上級生方の背中を追いかけて、少しでも近づきたい、そう思いながら成功よりも多くの失敗を経験したと思います。
入部当初はオンライン練習から始まりましたが、少しずつ対面での練習を行えるようになり、6月にスタンツ練習を行いました。人を乗せたり飛ばしたりするスタンツという競技は、見たことはあるものの経験したことはなく、小柄な私は問答無用で乗る側(トップというポジション)でした。
はじめは人の上に乗ること自体申し訳なく、躊躇してしまう場面も多くありましたが、、、
“トップというポジションは基の顔であり、スタンツにおいて1番に見られるのはトップであること”
“トップのミス一つが、下で支えてくれるすべての人の努力を無駄にしてしまうこと”
“良くも悪くも目立つトップだからこそ、その分だけの覚悟と責任を持ち、誰よりも強い心を持って臨む必要があること”
こうしたトップとしての心得を上級生トップの方々から教わり、その躊躇がみんなの怪我に繋がることを知りました。それからというもの、体幹トレーニング、逆立ち、ブリッヂが日課となっています。
10月の早慶クラシコではスタンツデビューを果たし、1年生ながらに難易度の高い技に挑戦させてもらいました。(同じ基だったM.KとE.Iはもはや戦友です。)迎えた本番前日のリハーサル、これまで練習してきた感覚とはまったく異なる会場の空気に圧倒され、今までできていたことが急にできなくなりました。「なんとかして成功させないと」と焦れば焦るほどうまくいかず、本番を迎えるのが怖くて眠りにつけないでいると、高校時代からお世話になっていた上級生トップの方から一件のLINEが届きました。
“成功失敗に拘らず、必死になって頑張る姿に心を動かされる人は必ずいる”
その言葉を見て、自然と肩の力が抜けました。失敗したらみんなの努力が無駄になる、そんなプレッシャーを抱えていましたが、こんな気持ちで届ける演技は見てくださる方々にも失礼だと思い直すことができたからです。
何よりも、本番前日の夜に気遣って声をかけてくださる温かさに、本当に救われました。
そしてこの時、トップとしての責任を果たしていく覚悟を、心に決めました。
〜2年生〜
2年目を迎えても尚、コロナは収束しておらず、外野応援席・マスクという形態での応援が暫く続きました。部員間で盛り上げて選手に届けるといった応援の中で、偉大な背中を持った上級生方の存在がとにかく心強かったです。
そんな憧れに少しでも近づくためにCL(コールリーダー : 白金台に立ち、部員に向けて大声でコールを伝達し、鼓舞する人)に挑戦しました。はじめて白金台の上に立った春の総合練習では、緊張して度々頭が真っ白になりましたが、部員の笑顔に勇気付けられながら一つ殻を破ることができたと思います。唯一部員全員と目を合わせられるCLという役割にやりがいを感じるようになり、そこからは上級生の姿を見てひたすら研究していました。
そしてこの2022年という年は、應援指導部にとって変革の年であると同時に、今の應援指導部を形作った年とも言えます。毎日夜遅くまでミーティングを重ね、私たちの目指す先を作り上げてくださった当時の4年生方、そして再建チームの方々、本当にありがとうございました。
〜3年生〜
春に内野応援席が復活し、待ちに待った有観客での応援が再開しました。それまでの部員間で作る応援スタイルも楽しかったですし、十分熱い空間でしたが、観客の方々と作る一体感ある応援席は、やっぱり格別でした。
そして「サブの代」と言われるこの1年間は、怒涛のように過ぎていきます。
《春季慶早戦作戦サブ》
5月末にある慶早戦に向けて、4ヶ月前からミーティングを開始。特に慶早戦前の1ヶ月間は、人生の中でもトップレベルに忙しかったですが、そんな忙しさすらも楽しく感じられたのは、現在広報責任者を共に務めるH.Yの存在があったからです。タスクが溜まると焦り出してしまう私を、弾ける笑顔と笑い声で包み込んでくれるのは今も変わらないですね。
企画の一つとして提案した野球部とのコラボTシャツは、秋季リーグ戦でも着用することになり、年の最後には「優勝Tシャツ」と呼ばれていました。羽のついた野球ボールには、”塾野球部を頂点へと羽ばたかせる”という願いを込めていたので、その願いが現実となって本当に嬉しかったです。
さらに、甲子園に向けて販売の機会をいただけたことも大きな喜びの一つです。応援の楽しさを知った原点でもある大舞台で、自分の描いたTシャツで彩られている光景を目にした時、言葉にならない感動を覚えました。
Amazonで模倣品が販売されるという予想外の事態もありましたが、野球部と共にこのTシャツを作り上げ、多くの方に届けることができたこの経験は、私にとってかけがえのないものとなっています。
《広報サブ》
この時から広報に携わっています。絵を描くことは好きでしたが、デジタル系のデザインには疎かったので、まずはPhotoshopの使い方から学びました。少しずつ知識を蓄え、画像作成、動画作成、さまざまな面でできることが増えていくと、作ることの楽しさを改めて実感しました。
《スポーツサブ》
はじめて応援の運営側を担い、「応援席を作る意識」が一段と芽生えました。
コロナが終息し始め、ようやく応援席復活が叶った年でもあったため、右も左も分からず不安を抱えることもありました。しかし、熱い想いを胸に、共に試行錯誤してくださる體育會の方々がいらっしゃったからこそ、最後まで勝ちに繋がる応援席を模索できたのだと思います。
いざ勝利を掴み、嬉し涙を流す姿を見た時は、自分ごとのように嬉しかったです。
《トレーニングサブ》
練習を進行する立場となり、1日練習ですらあっという間に感じるようになりました。緊張しながら練習に向かい、夜遅くまで練習場に残ったりもしたけれど、今年で18年目くらいの付き合いであるS.Kが横にいたので、乗り越えられました。いつもありがとう。
〜4年生〜
入部当初から、広い背中で道標となってくれる4年生の姿に心底憧れていました。上級生方がいらっしゃること自体がモチベーションであった私は、当時の4年生が卒部する際、引退しないで欲しいと懇願するくらいでした。笑
高校3年生をコロナで失った私たちは、最上級生らしい振り舞いができるのだろうか。
そんな不安と共に幕開けした春は、正直ただただ苦しかったです。個性溢れるこの代が好きで、その個性が合わさればきっと大きな力になる、そう分かっていたからこそ、何もかも上手くいかない現実がもどかしかったのだと思います。眠るたびに悪夢を見て目覚める日々が続き、そこではじめて頑張る理由を見失いました。
「去年は慶應イヤーで、色んな慶早戦で勝ちも見てきて、定演も大成功して、あのまま引退できたら幸せだった。」
そんな寂しいことを口にしてしまう自分が本当に本当に嫌でした。
確かにこの1年間は、嬉しいことよりも苦しいことの方が多かったかもしれません。思い描く未来が悉く崩れていく度、自分たちの不甲斐なさを痛感しました。
ミーティングを重ねる中でなんとか辿り着いた
“私たちは私たちらしく”
という言葉は、正直想像していた「最上級生らしさ」とは違いましたが、同時にそんな肩書きに囚われていた自分が恥ずかしくなりました。
個性豊かなこの代が、お互いに修正し合って前を目指す姿は、後輩から見ても頼りない背中だったと思います。それでもそんな4年生を見て、変わった姿を見せてくれる後輩たちがいてくれたことに心から感謝しています。
そして應援指導部生活最後の慶早戦を二連勝という形で終えられたとき、「あの時諦めなくてよかった」という思いが全身に巡ると同時に、最後までやり抜こうという気持ちで胸がいっぱいになりました。
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迷いや葛藤、苦しい時期も数え切れないほど経験した4年間でしたが、それ以上の忘れられない数々の景色と、人との出会いが、「應援指導部に入って良かった」そう思わせてくれます。
自分の最大限を引き出せるこの部活での想い出すべてが、私にとって一生の財産です。
第五章 お礼
さて、当初この第五章では「應援とは」という題で自分なりの應援を書き記すつもりでしたが、第四章でいい具合に締まってしまったので、そろそろ皆様への感謝を綴り、締めくくりたいと思います。
応援席の皆様へ
私たちが應援”指導部”としていられるのは、皆様の存在があるからです。
毎試合欠かさず足を運んでくださる方々
必ず最前列に座って全力で盛り上げてくださる方々
どんな時も優しい笑顔で返してくださる方々
遠方からスーツケースを持って応援に来てくださる方
可愛い熊のぬいぐるみと共に応援してくださる方
「あなたを見て、神宮球場にもう一度来てよかったと思えた」と涙を流しながら伝えてくださった方
内野応援席が復活してからの2年間、本当にたくさんの方々との出会いがありました。
皆様との繋がりが、そして掛けてくださる言葉の数々が、私の原動力となっていました。ありがとうございました。またお会いできる日を、楽しみにしております。
上級生方へ
1年生の際、外野応援席で見たあの景色を私は二度と忘れません。笑顔と熱気で溢れた皆様の姿を見て、一瞬にして目指す先が定まりました。常に道標となり、私たちの進むべき道を示してくださり、本当にありがとうございました。
後輩たちへ
みんなの挑戦する姿や頑張る姿を見て、何度も奮い立たされました。言わずとも先を見て動いてくれる存在や、部員全員の前で鼓舞してくれる存在がいることを誇らしく思います。ありがとう。
広報スタッフへ
少しでも広報の基盤を固めたくて、細かい部分の修正をお願いしてしまうこともあったけど、期待以上に仕上げてくれるみんながいてくれて本当に助かりました。
試合後の疲れてる中すぐに編集作業に取り掛かってくれる人
夜遅くまで編集作業をしてくれていた人
抜群なセンスを発揮してくれていた人
大変な仕事も通年でやってくれた人
率先してアイディア出ししてくれる人
そんなみんなの努力が合わさる広報の可能性は無限大です。時間が足りずできなかったこともあるけれど、それはしっかりと引き継がせてもらうね😄
同期へ
入部当初から毎日のように顔を合わせ、苦楽を共にしてきたこの4年間。個性に溢れたこの代は、正直纏まりずらいこともあったけど、みんなの頑張る姿を見るたびに自分も頑張ろうと思えました。4年間に収まりきらないほどの想い出の数々を、今後会う度に振り返っていけると思うと楽しみだよ。残り15日間、みんなと過ごせる最後の時間を存分に噛み締めたいと思います。
そして12月2日、最高の景色をみんなで見よう。
親友へ
「久しぶりに会ったはずなのに、まるで昨日の続きのように会話が始まる」とはまさにあなたのことです。名前を出さずとも伝わるので出さないけれど、神宮も定演も、側で見てくれていて本当に心強かったよ。いつもありがとう。
家族へ
まずはここまで育ててくれてありがとう。
これまで学生生活、どんな時も好きなことに熱中できたのは、紛れもなく両親のおかげです。
辛い時こそ、家族が1番の味方であることを思い出させてくれる父。
色んな試合に来ては苦手なはずのカメラを構え、いつも1番近くで支えてくれる母。
部活で疲れた時こそ、優しい笑顔と言葉で包み込んでくれる祖母。
常に一歩先から見守り、ふとした時に背中を押してくれる兄。
こんなにも温かい家族に囲まれた私は本当に幸せ者です。
“全力でやり切って、後悔することは絶対にない”
その言葉を胸にスタートしたチア人生も、間も無く終わりを迎えます。
あの時背中を押してくれて本当にありがとう。
最後の最後までどうか見守っていてください。
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拙い文章でしたが、ここまでお付き合いくださりありがとうございました。
一色の応援席に少しずつ色が足されていくあの高揚感、挑戦が成功に変わった時の達成感、溢れる熱気の中で全員の想いが一つになる一体感、これまで感じたことのないたくさんの感情を、この應援指導部で味わうことができ本当に幸せでした。
あとほんの少しの間、私らしく全力で駆け抜けます。